エッセイ(雑記)

こんな宗教信者は嫌だ

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 ①原理主義者

 聖典の言葉を一字一句間違いないとする考えの持ち主のことである。融通が利かない、というのが大きな特徴。自身の信仰対象、聖典の記述および解釈の正しさを疑わない。

 その多くは他宗教に対して寛容ではなく、(聖典にもよるが)差別主義的な思想を持つことが多い。

 彼らに議論を持ちかけるのは時間の無駄である。なぜなら、譲歩するということを知らないから。考えが異なる人にとっては、近寄りたくない存在だ。こちらに危害が加えられる恐れのない限り、放っておくのが一番である。

 ただし、彼らが布教活動に熱心な場合は、それに巻き込まれる可能性がある。事実、日本の大学のキャンパスなどは布教活動のメッカである。無視するのがよろしいと思われる。一回話を聞いてみようだとか、話し合ってみようだとか、理解し合おうと思うのはいいが、彼らが自分の考えを曲げることはまずありえないので、非信者は引きずり込まれないように適当なところで引き上げるのがよいであろう。聖典の矛盾を指摘するなど、彼らを挑発するような行為も避けたほうがいい。身を守るためである。

 彼らの信念は、すべて聖典の記述に依存していると言ってよい。

 もし彼らが平和を愛するのであれば、それは聖典にそう書かれてあるから、というただそれだけの理由である。もし彼らが他者に対して優しく接しようとするのであれば、それは聖典にそう書かれてあるから、というただそれだけの理由である。もし彼らが他人を愛そうとするのであれば、それは聖典にそう書かれてあるから、というただそれだけの理由である。

 彼らに「聖典が間違っている」という主張をしようものなら、ただちに、「道徳が崩壊する」、「この世は悪で溢れかえる」などという反論が返ってくるだろう。

 そう、彼らは、<聖典などを必要としない善意や無償の愛>を知らないのである。

 聖典の引用を恣意的なものにするか、解釈を過激なものに変更すれば、過激派が出来上がる。たとえば、聖典に他宗教の信者は殺せと書いてあると一度解釈したならば、それを実行をするのが原理主義者であり、過激派である。

 ②過激派

 尖った宗教的思想の持ち主で、かつ、自身の宗教的確信のためなら、犯罪および他の宗教者もしくは無宗教者の平和を脅かすことに躊躇いのない人々。

 彼らについては、消えて欲しいとしか言えない。

 ③穏健派

 最も所属人数が多いであろう分類。聖典をほどほどに信じている人々の集まりであり、ほどほどの程度は様々である。

「ほどほど」というのは、自分にとって都合のよい、信じたいと思っていることを信じているに過ぎないことを表している。口では「聖典を信じている」と言い張る人でも、実は、自分の信じたい文章を聖典の中に見出しているだけの人が多い。良い言い方をすれば、彼らは柔軟さを持ち合わせている。悪い言い方をすれば、彼らの信仰は中途半端である。少なくとも、原理主義者には中途半端であると見なされているだろう。

 彼らの多くは無害である。穏健派の人々は、過激派の人々が同じ宗教の信者であることを認めない。それは、穏健派の(原理主義者から見た)信仰の中途半端さに由来するものである。この点に関して言えば、聖典を一字一句間違いないものとして信じている原理主義者のほうが、まだ考えは一貫しており、理解するのは容易い。

 いっそのこと、聖典のつまみ食いを認め、信者であることを止めたらどうだ、と(私は)思わなくはない。彼らが自身の信仰の中途半端さに気づいているなら結構なことである。それでも天国へ行けると信じているなら、思違いも甚だしい(と、原理主義者には思われているだろう)。

 この信仰の中途半端さに人間臭さを感じ取ってしまうのはご愛嬌。無宗教者や他宗教者とは、まだ仲良くできる可能性はある。

 私が彼らに要求したいのは、ただ一つ。

「郷に入っては郷に従え」
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